Montessori Methodについて
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褒める時
モンテッソーリ教育に限ったことではないと思いますが
子どもを褒めるのってとても大事ですよね。

まだまだ肉体的にも精神的にも発達途上の子ども達にとっては
毎日のちょっとずつの進歩がとても重要です。

どんなに小さなことでも
何か出来た時の子ども達の嬉しそうな、そして誇らしそうな顔を見るのは
彼らの成長を見守る立場にある人にとって、この上ない喜びだと思います。

そして、時として子どもたちの中に見え隠れする
すばらしい人格の芽生えのようなものを垣間見ることがあったら
それを素直に「君ってすごいね!」
と伝えてあげたいですよね。


た、ただし…
大げさに褒めすぎるのはちょっと要注意です。

それは何故かというと
大げさに褒めすぎてしまうことで
子ども達を褒めることに慣らしてしまうと
彼らが何かをする時に
「必ず褒められる」ことを期待してしまうようになるからです。

もちろんお子さんが小さい時には
親御さんは自分の子どもの小さな進歩が嬉しくてたまらなくて
ついつい褒めたくなるのはとてもよくわかります。
そして褒めてはいけないとは決して言いません。
ただ、本当に自分が「この子ってすごい!!」と思って
その尊敬の意味を込めて言うのがとても大事です。
無理に声を大きくしたり、芝居がかった感じで言う必要は皆無です。
本当にすごいと思って言っているかいないかは
ある程度の年齢(大体3歳以降)に達した子どもにはすぐにわかってしまいます。

「必ず褒められる」ことを期待してしまう子が
そのまま大きくなったらどうなるんでしょうか。

まず初めに、子どもにとっては
何かをやろうとする時に難しいとか簡単とか、間違えたとか上手くできたとか
そういう概念がありません。
そういう概念を学ぶのは大人が子どもに対して
「これはすごく難しいんだよ。」
「よくできたね、こんなに難しいのに!!」
という言葉をかけていくことで
自然に
「あ、これって『難しい』ことだったんだ。確かになかなかできなかったけど…。」
と、後からの理解で難しいことを学んでいくことがほとんどです。

または
大人が
「それは難しいから、ちょっとあなたには出来ないかもしれないね。」
という言葉をかけながら何かをさせた時に
子どもが実際に何かを達成できないと
「ああ、『難しい』って、『出来ない』っていうことと近いんだ。」
と同じように後からその意味を学んだり。

そうして『難しい』と同じように『簡単』という概念も学びながら
何かを出来たときに「褒められる」ということに慣れていくと…
本来なら彼らの中にある
(簡単なことでも難しいことでも)「何かを達成できた!!」という喜びだけで
次のレベルに自然と進もうとする本能的に用意されている意欲が
少しずつ薄れてしまい
何か小さなことをやり遂げるたびに
「ねぇねぇ、これやったよ!!」
「これできた。」
と大人に見せに来るようになります。
これ自体にはまぁ、まだあまり問題はないといえばないのですが…。

小さい時はとても大げさに褒めてくれていた大人たちは
果たして彼らが徐々に大きくなっていっても同じように褒めてくれるかというと
そうではないことがほとんどです。
最初の頃は
「わー!すごいじゃない!えらいね〜。また頑張ってね!!」
などと言ってくれていたのに
何度もそれが続くと、そしてある程度の年齢に達すると
「ああ、ほんとだ。」
「すごいね。」
と段々と賞賛の言葉も簡素になり
忙しい時に見せられたりすると
「ごめん、今忙しいから、ちょっと後で見せてくれる?」
「ああ、わかった。よくできたね。」
と、
とてもシンプルな無味乾燥なコメントになり
子どもの達成の感動を共感してくれることは少なくなると思います。
終いには
「ふーん。」
で、コメントを済ましてしまう人もいるのでは。

それまで得ていた報酬のような褒め言葉が段々となくなることで
「なんだ、頑張ってやったのにあんまり褒められなかったな。。。」
「僕がやったこと、そんなに大したことなかったのかな。」
と思ってしまい
次第にやる気が無くなっていく危険性があるのです。

しかし、いつもいつも褒めるのは
大人の立場からすればとても疲れてしまいますよね。
何かができたことを報告されるたびに
子どもが喜ぶようにいつも違った褒め言葉を考えるのは
回数が増えれば増えるほど、至難の業になるでしょう。
(まあ、大人の都合で子どもを褒めるのを忘れてしまうのは困りものですが…。)

しかし、
最初からそこまで大げさに褒める必要は
実はあまりないということに気付いていれば。
子ども達は自分が何かをできたという達成感だけでも
十分に次の段階に進もうとするということを知っていれば。
彼らへの対応も大分変わってくるはずです。

彼らが何かを自分でやりたいと思ってやった時に
むやみに褒め称えるのは
実は彼らにとってはとても不思議なことなのです。

例えば、ある人が
本を読むのがとても好きで
とても分厚い、読むのに何日もかかるような本をやっと読み終えて
あ〜、面白かった〜。
と、
読み終わった満足感、そして面白かった本の内容の余韻に酔いしれている時に
それを見ていた他の人がやってきて
「わ〜、偉いね!そんな分厚い本を読んで!
勉強家だね!!また頑張って他の本も読んでね!」
と、褒め称えたとしたら。
褒められた人はきっと悪い気はしないかもしれませんが、
それと同時に、
「ん…?」
と、思うはずです。
本を読むこと自体が本人にとっての喜びで
別に他の人に何か言われたくて本を読んだわけではないからです。
褒められることなんて期待してもいなかったのに、
よくわからないけど褒められちゃったわ…。と感じるはずです。
子どもにとっての何かしらの作業もこれと同じことで
彼らは自分がやりたいと思うことをやりたいだけやれることが喜びで
それに対して賞賛の言葉はいつも必要というわけではないのです。

じゃあ、実際子ども達に接していく中で
どうやって彼らのやる気を出すように、褒めすぎずに褒めれば良いのでしょうか?
ここで簡単な褒め方マニュアルを示すことが出来ればいいのですが
全ての子どもに対応する完全マニュアルを作ることは無理なので
ものすごーく大雑把にですが、年齢に応じて
彼らの「何かを成し遂げる」ことに対しての意欲の度合いと
それが出来た時の達成感がどれくらいのものであるかを示すので
それに対して大人からどの程度の賞賛をするのが良いか
親御さんが各々で考えてもらえればと思います。

まず、
●0歳から2歳半ころまで

彼らの発達の勢いはものすごいですよね。
この時期の彼らはこの世に生まれてきてから
人の肉体を得たばかり。
発達途上の精神を精一杯使って
肉体(これもまた発達途上)を自分のものとして動かせるように
ありとあらゆる取り組みをしています。
彼ら赤ちゃんたちにみなぎるエネルギーは『ホルメ』と言う
誰にも言われなくても自分で自分を発達させようとする
本能に近いものから来ています。
寝転がって手足を動かしたり、空を見ているだけでも
彼らの脳内はフル回転です。
体のありとあらゆる機能を
自分の意思で好きな時に好きなだけactivateできるように
大人からはわからなくてもとても頑張っている状態です。
そんな彼らに大人は常に優しいまなざしで言葉かけをしたり
見守ってあげているだけでも
彼らにとっては更なる良い刺激となっています。
賞賛の言葉も
(この頃の大人の子どもに対する賞賛の言葉は大抵本気で言われているので)
どんどんかけるべきでしょう。
というか、この頃の大人の子どもに対する賞賛は
実際には賞賛と言うよりも
その子の成長を喜ぶ愛情や幸せな気持ちが言葉という形を取っているものなので
本人に意識できる形の記憶として残っていなくても
深い潜在意識の中に残る良いフィードバックとしての賞賛は
この後の発達にとても大きないい影響を与えるはずです。

●2歳半から6歳頃まで

0歳の頃から行われていた
無意識的に周囲のありとあらゆる情報を吸収する時期を終え
この頃から徐々に自分から意識的に周囲に働きかけて
自ら情報を得ようとします。
この情報と言うのは五感から得られる全てのデータという意味なので
自分の体の各器官を使った経験もその一つになります。

自分でやりたい!!自分の意思で決めたい!!自分で!!自分で!!
という自我が芽生え始めて
それまで大人の言うことを言われるがままに聞いていた子ども達が
突然わがままになるような印象を受ける時期です。
しかしこれはわがままなのではなくて
いろんな活動を通して個性を作ろうとしている大事なプロセスなので
大人に取ってはちょっとした我慢の時期でもあります。

彼らに必要なのは自分で考えて選ぶための選択肢。
何かをやって欲しいと頼む時、
「これとこれをやって欲しいと思っているんだけど
あなたはどっちがやりたい?
どっちもやりたかったらやっていいんだけど
どっちを先にやりたい?」
と聞くほうが
「はい、これやって頂戴。」
と言うよりも
彼らはすんなりやってくれることが多いです。
(いつもすんなりとはいきませんがね…。)
そこに自分の意思や意見が尊重され、
反映されていると感じるからでしょう。
また、自分で選ぶという行為をする中で
自主性も少しずつ芽生えてきます。
誰かに選んでもらったものしか出来ないようでは
大人になってから困りますからね。

何かを頼んで、
若しくは彼らが自分から何かをやり出してその作業を終えた時
とってもシンプルなコメントをあげるだけで
子ども達にとっては十分なことが多いです。
何故なら彼らは自分で何かできたことで既にとっても満足しているのですから。

重要なポイントは真面目に接すること・・・でしょうか。
彼らはまだ子どもですから出来ることには色々と限りがあります。
だから大人の目から見たら
彼らのやっていることは大したことには見えない場合が多々あります。
けれど、「大したことをやっているようには見えない」と思いながら
適当な賞賛のコメントを大げさに言うだけ言っときゃいいだろ。。。
なんて態度で言うのは、とても失礼なので
やめたほうが良いです。
少なくとも、自分が接する子ども達に
そういううわべだけの態度で人と接する大人になって欲しくないと
ちょっとでも思うのであれば
そうしないように努めて欲しいです。

●6歳から12歳

この時期になると徐々に出来ることが増えてきて
頑張ってやろうと思えばよほどのことでない限りできるようになります。
ある意味大人のお手伝いを十分に出来るようになる年頃です。
そういう彼らにとってむやみやたらに褒め言葉を投げかける必要はあまりなく、
それよりもむしろ彼らの心の奥底に眠っている
自分以外の人のために役に立ちたい!!という気持ちを尊重して
家の中のことだけに限らず
近所のこと、学校のこと、地域のことを一緒になって考えたり
社会のために大人と一緒に出来ることを教えてあげると
どんどんそういう活動に参加したがるようになります。
家の中でのことをやってくれた時でも
もはや小さい頃に言っていたような
「○○ができるなんてすごいね。」なんて褒め言葉は言うまでも無く必要ありません。
何故ならもうちっともすごくないからです。
彼らにとってそれが出来るのはごく自然で当たり前のこと。
それを無意味に褒めちぎるのは
彼らの能力を過小評価しているということになり逆に失礼です。
もちろん、本当にすごいことをやっていたら
思ったまま素直に「すごい!」と言うべきでしょう。

掃除や洗濯、炊事を手伝ってくれたら
褒めると言うよりも
それがとても助かることであることを伝えてあげるほうが
彼らにとっては何より手伝いにやりがいを感じる十分な報酬になるでしょう。
掃除を一緒に終えた後にお母さんが
「ありがとう、早く掃除が終わって助かった。
この後はずっと読みたかった本が読めるわ〜。嬉しい!」
って、言ってくれたら
子どもはきっとお母さんと同じくらい嬉しい気持ちになるでしょう。
そして幸せな気持ちで彼らがやりたい作業に戻っていくはずです。

炊事を手伝ってくれたら
お母さん「今日は○○がご飯作るの手伝ってくれたのよ。
この味付けも最後の味見はちゃんと▲▲にチェックしてもらったの。
二人のおかげでおいしくできたわ〜。」
お父さん「ほんとだ、おいしいね〜。」
ただそれだけのコメントできっと子ども達には十分でしょう。

彼らがお手伝いをするのは
本当の意味で手伝いたい=役に立ちたいからで
「偉いね!」と言われたいからではありません。
そのことを覚えていればきっと
どの年齢の子達に接する時でも褒めすぎることなく
彼らの少しずつの成長をサポートする素敵な褒め方が出来るはずです。
きっと…。
| 子どもとの接し方 | 03:39 | comments(9) | trackbacks(115) |
まだ生まれていないくせに!
マリア・モンテッソーリさんは
モンテッソーリ教育の創始者なわけですが、
彼女はどんな人だったのかと言うと
いつも謙虚で、朗らかで
でも(当時男尊女卑の風潮の強かったイタリアでも)男性などの中傷に負けたりせず
むしろ相手の言ったことを逆手にとって周りを笑わせ、
和ませることができるような
大胆で知的な人だったと文献に記されています。

彼女が謙虚だとわかるのは
モンテッソーリ教育として世にその教育法が知られ始めてから
人々がどんなに彼女を賞賛しても
「私がしたのはただそこにあった事実を見つけただけです。
他の科学者の人達が新しい原子や原理、法則を発見したのと同じように
子ども達の本当にあるべき姿を発見しただけで、
私自身が何かを創り出したわけではないのですよ。」
と、さらっと言い放っているところ。
か、かっこいい…。(惚)
彼女には教育法を大成することによって得た名声なんて
全く眼中になかったんだろうなぁ、と思わされる発言です。
きっと私が彼女の立場だったら
「発見しちゃったもんね!!すごいでしょ!!
うはははは!!どうだ、どうだ!!もっと褒めて!!」
と、大分天狗になってしまうところだと思うのですが…。
(えぇ、お恥ずかしい限りです。)
そういう意味でも彼女は私の尊敬する人です。


彼女はモンテッソーリ教育を体系化させるまでに
毎日寝る間も惜しんで医師としての知識と鋭い観察力によって
子ども達の内に眠る本当の姿を発見するべく
日々研究に勤しんでいたそうです。
亡くなる前日の夜まで研究レポートを書き続けていたというのだから
本当にこの教育法に全てを注いでいたことが窺えます。

そして、彼女は小さい時から
自分に課せられた使命を既に知っているかのような言動をしていたようで
その彼女の不思議な逸話がいくつかあるのですが、
今回はその逸話の一つをご紹介します。


小さかった頃のマリアは
どの子どももするように
ちょっとした子供同士の諍いを同年代の子としたそうなのですが
その時の彼女の相手に対する発言が
「何よ、あなたなんて、まだ生まれてもいないくせに。」
だったそうです。

こんなことを言われた相手の子たちは
家に帰ってから自分の両親達に
「マリアったら、私達ってまだ生まれてもいないって言うのよ。」
と話したそうです。

うーん。
こんなことを自分の子どもが言われて帰ってきたら
私ならさぞかしショックを受けるのですが、
この子ども達の親は一体どう受け止めたのでしょうか…。

彼女の言わんとすることは
地球上に数多くある命の種の中で
例え人間としてこの世に生を受けて存在していたとしても
「あなた達はまだ「人」として生まれて(目覚めて)いないわ。」
ということだと私は解釈しているのですが
これって小さい子どもに限らず
結構年を取った大人にも言えることですよね。
いくつになっても一人前の「人」としての心構えを持って
日々分別をもって振舞うことはなかなか難しいのですが、
彼女はどうやらこのことを小さい頃から既に直感的に知っていたようです。
そして、それがまだできていない相手に何かをされて
それをたしなめる為にこう言い放ったのでしょう…。

彼女のこの直感力と、医師としての勉強をする上で身につけていった観察力は
子ども達の観察をする上でとても重要な鍵を握るものだったようです。
彼女自身も「この直観力なしにはこの教育法の大成はありえなかっただろう。」と言っています。
子ども達の「科学する心」をお医者さんとしての「科学する目」と
直観力で常に真剣に見つめていた彼女って本当にすごいなぁ…。
と、感心する一方で
自分自身、子ども達と接していて
子ども達が何を欲しているのかわからなくなった時に
このことを思い出すようにしています。
科学する目と直観力、大事だわ!!と。

彼女が著書の中で言っているのは
「彼らが本当に求めているのは大人が考えているよりも
ずっとスケールが大きくて、知的で
大人が窺い知れないような宇宙的な思想の元に成り立っている。」
ということです。
つまり自分の物差しを取り払って広い視野で子どもを見ていなければ
彼らの望むものを理解することやそれを用意することはおろか
コミュニケーションすら難しいということです。
子育ての経験があるお母さんや何年もやっている保育士さんたちでも
子どもがもはや何が気に食わないのか全くもって理解不能!!なくらい
わんわん泣いてしまってお手上げ状態の経験があると思います。
それがちょうどこの「コミュニケーションすら難しい」のケースです。

子ども達のことを理解するのは実際本当に難しいんですが、
相手をわかりたい!!と切なる気持ちでいると
子どものほうからさりげな〜くヒントをくれたりすることがあります。
多分子どもはヒントを出すつもりなんてないと思うのですが、
「キター!!思いが通じたぜい!!(涙)」と、私はわらをも掴む気持ちで
必死にそのヒントを元に自分なりに問題解決に努めます。
大抵子どものヒントで自分のアプローチがどう間違っていたのか、や
子どもの欲するものが何なのか、など
一気にサーっとわかるので、それもまた不思議で面白い感覚です。
「教えてくれてありがとう〜、そういうことだったのねぇ。早く言ってよー!」
と、子どもの横で独り言を言っている私を見かけたらそれはその瞬間です。

とりあえず、ヒントがわかってしまえばこっちのもの!!なので
子育て中の方も(すごい抽象的で具体的な対処法は皆無なのですが)
試してみてはいかがでしょう…?
「何を?」って、やだな〜!
「科学する目と直観力で宇宙的な思想を紐解く努力をする!!」ですよ…。
(やっぱり抽象的で意味不明ですね。文章力がなくてすみません。汗)

私がいつも胸に抱くよう心がけている(あくまでtryingの状態です…)のは
「全ての子どもはみんな違う個性を持っているから
それぞれの子どもに接する時はいつも
新たな宇宙の知られざる秘密と対面しているようなものなのかなぁ…。
それってとっても貴重な体験だよなぁ。」
という気持ちでしょうか。
こういう風に思えるようになったのも本当につい最近で
実は、昔は「宇宙の…とか意味わからんワイ!!」と思っていたんです。(これ内緒。)

子どものことも宇宙のことも、すぐにわかろうと焦らず、
でも、いつも理解したいという気持ちをどこかに抱きながら
まったりのんびり接していくのが良いのかもしれません。
お母さんが焦ったりイライラしているのが一番、
子どもにとってストレスになるので。

ちなみに私のメンター(のような人)は
子どもがお手上げ状態になると素直にそして、本気で (←これが難しい)
「もうどうすればいいのか、わからなくなっちゃったよ〜。ふふふ〜。」と
いきなり笑い出していました。

最初に見た時、正直私はドン引きしましたが、
子どもはキョトンとして泣き止み
その後すぐにコミュニケーションを再開していたので
その子の場合にはそのアプローチが正しかった(?)ということでしょうか。
こういう方法もある、という一例でした。

注:このメンターはかなりサイキックな人で、
私には到底理解不能なことを
かなりの頻度でやってのけるような方なので
普通のお母さんにこの方法を勧めるわけではありませんよ〜。
あくまで一例です!
| モンテッソーリ女史の逸話 | 02:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
準備され整えられた環境
子どもの家(モンテッソーリ教育を行う園のこと)で、
子ども達は教具を使って色んなお仕事をして
お仕事の活動の中で将来必要となってくる様々なことを学ぶのですが
学ぶ内容はかなり多岐に渡っており、
精神的・肉体的にバランスが取れるように構成されているのが特徴です。

モンテッソーリ教育では
教具を使って子ども達に自由に活動をしてもらうために
子ども達に危険が及ばないように
大人が細心の注意と配慮をして子ども達の環境を整えておかなければいけません。
子どもの家を開く際には
この
整えられた環境
を用意するべく
色々な要素を満たさなければいけないのですが
子どもの家で使われる教具の要素を幾つか挙げてみました。
これはおうちで子ども達と接する時に
ちょっとでも知っておくといいヒントになる知識だと思います。

●全てのものが子どものサイズ(大きさ・重さ)
●美しく魅力的な色やデザイン
●本物であること

それぞれの説明は以下です。

すべての物が子どものサイズ
子ども達がお仕事をするに当たって
もし大人サイズのものを使って作業をしたとしたらどうなるでしょう。
子どもの家でのお仕事は大人になった時のための練習だから
大人サイズの物を使うのはいいんじゃないの?
と思う方も、もしかしたらいるかもしれませんが…。

わかりやすく説明する為の例として、
もし、ある大人の人が
(あまり有り得ないことだとは思いますが)
大人になってから初めてハサミを使おうと思ったとき、
明らかに自分の手のサイズより大きい
巨人サイズのハサミを使わされたとしたら
果たして上手く使えるでしょうか。
かなり使いにくい上に、扱うこと自体、危ないですよね。
その人がどんなに手先が器用だったとしても、
若しくは手先が器用になる潜在能力を持っていたとしても
サイズがあっていなければ上手く使えないでしょう。
子どもの場合もこれと同じことです。
彼らの手先をコントロールする随意筋はまだまだ発達過程なので
最初のうちはサイズが合っているものですら
思ったとおりに使いこなすのは至難の業です。
そんな彼らに対してサイズの合っていないものを渡すのは
余計な試練を与えるようなものです。

また、あまりにも使用が困難な場合には
子ども達のせっかくのやる気
(この場合はハサミを上手に使って何かを切ろう!!という気持ち)を
みすみす削いでしまうことにもなり兼ねません。


美しく魅力的な色やデザイン

子ども達に限ったことではなく、
人にはもともと美しいものに惹かれる芸術的な心や傾向性があります。
小さい頃から子ども達を美しいもので囲んであげることで
彼らが内に秘めている芸術の才能を芽生えさせるきっかけを作ることになります。

子どもの家では、汚れてしまった時に目立ちやすいような綺麗なパステルカラーを
わざと子ども達の使う家具や食器の色として用いるのですが
これは上で言ったような芸術的な配慮だけではなくて
淡い色の上についた「汚れ」が目立つことで
それに子ども達が自ら簡単に気付くことができて
(最終的には)大人が何かを言わなくても
一人でお掃除ができるように、こうなっています。

本物であること

扱うものが何であっても、
子ども達はニセモノよりも本物を好みます。
何故でしょうか?
ニセモノを扱うことでは
子ども達が持っている知的好奇心が満たされないからです。
子ども用おもちゃなど、最近では「音が出る携帯のおもちゃ」や、
昔からあるものでは「子ども用のキッチン」などがありますね。
多分、これらを与えられた子ども達は
最初のうちはとっても大喜びだと思います。
与えた大人も子ども達のその様子を見てとても嬉しいはずです。
しかし、何日か、何週間か、はたまた何ヶ月か経つと
子ども達はその大喜びしたはずのおもちゃに前ほど興味を示さなくなります。
その一方で大人が持っている本物の携帯や
大人が作業している台所に対して興味津々なのは前と全く変わらなかったり。
どうしてでしょうか?
それは
ニセモノでは本物の持っている機能や
本物の特徴を踏まえた使用感を子ども達が学ぶことができないからです。

その他、
必須事項!!と…わざわざ書く必要もないと思うのですが、
常に清潔にしておくことがかなり大事です。
清潔で整えられた空間で過ごすことが
小さな子どもの中にある秩序を好む気持ちを満たして
彼ら自身、知らず知らずの内に整理整頓上手、きれい好きになります。
ただし、整理の仕方やお掃除の仕方を
きちんとわかり易く見せてあげて、教えてあげない限り、
上手になりたくてもなれないので注意してください。
| 専門用語 | 00:07 | comments(0) | trackbacks(1) |
集中現象と敏感期
自分は今だから幼児教育に携わってますが、
昔は子どもが結構嫌いでした。
(うるさいし、言うこと聞かないし、物を壊すし、家汚くするし、生意気だし
もう他にも挙げていくときりがないくらい。
とにかくうざいんじゃー!!
と、嫌っていました。
自分だってかつては相当うざい子どもだったのにね。
そして沢山の大人にあからさまにうざがられていたのにね…。
子どものときにうざがられた経験があったから
自分がある程度の年になってから
同じようにうざがるようになってしまったのかも?
だとすると、恐ろしいことだ。)


でも、
こういう子ども達の一面は
実は彼らの本当の姿ではないんだなぁってことを
幼児教育を通して知ることができたので
今では昔と全く違った視点で彼らを見つめることができて
それがすごく面白いので
沢山の人に是非知って欲しいなーと思いつつも
自分がいいと信じるものを無理に押し付けるのって
変な宗教の勧誘みたいで嫌なので
勝手にここで一人ごちることにしました。

あくまで独り言なので、
ここを読んでモンテッソーリ教育の全てがわかるとは思わないです。
本をいっぱい読んでも、学校行って勉強しても、まだまだ
ミステリーなのが子ども。
でもだからこそ面白いんです。
モンテッソーリ教育は彼らのそのミステリーをほんの少しだけ垣間見るための
ヒントをくれるものだと思ってください。
子どものこと、彼らの秘めているミステリーを全部理解するのは無理です。
大人になってコミュニケーションが問題なく取れるようになっても
互いを完全にわかりあうことは難しいのですから
子どもの時のまだまだ発達段階の個性やその発達過程を
理論づくでわかろうとするのは傲慢というものです。

モンテッソーリ教育はイタリアの女医さん
マリア・モンテッソーリさんによって
彼女の長年の研究と経験の集大成としてまとめられた教育法です。

彼女曰く
子ども達は本当に自分達が成長するべき姿をちゃんとわかっていて
大人が変な風に押さえつけたり、扱い方を間違ったりしなければ
自然と良い方向に向かっていくのだそうです。
彼らの意思にそって自由にさせてあげるのがよいそうです。
(だからといってほったらかしにするわけじゃありませんよ。
よく子どもは自由にさせてあげてください
それはなぜかというと…
と、言いかけてるときに
「わがままになるんじゃないの?」とか「協調性がなくなるんじゃないの?」とか
言う人がいるんですけど。
自由の意味わかってますか?と言いたくなります。
子ども達には予め最低限のルールを理解できるように伝えておいて
それを守った上で自由に行動してもらうっていうのが
いい年してどうしてわからないんでしょう…。
子どもに対する説明としてだけでなくて
自由って元々そういうことですよね。
って、言いそうになりますが、
まあ、大人って言っても育ってない人はいますし
子どもは特にそうですが、
年齢でその人の人格や能力を判断しちゃいけませんよね。
きっと、そういう風にその人が思ってしまうには
これまでの過程で何かあったのでしょう…。)


彼女の著書を読むと
これまでの教育法がいかに子ども達を捩じ曲げてしまっていたか
本当に良くわかります。
どの教育法も子どもをいい方向に導こうとしているのがわかっているだけに
悲しいことでもあります。
子ども達を押さえつけて大人に都合のいいように型にはめてしまうのが
どれだけ子どもに害があるかっていうことは
近年になってやっと害が顕著になってきたおかげ(?)で
広く認識、理解されるようになりましたが
まだまだ教育については問題が山積みです。

実は自分の母親も教育に携わる仕事を今しているんですけど
彼女は今、大学の講師で
将来保育士になる人たちに小児保健を教えてます。
この保育士の卵たちが何だか色々大変だそうです。
(「小学生に教えるようなことを
1から、いや0から教えなくちゃいけなくてうんたらかんたら…」
とよく愚痴をこぼされます。
そんな人たちが保育士になるなんて…とかなり心配というか不安なんですが、
これはまた別の機会にお話します。)

そんな彼女(大分)昔は白衣の天使ぴかぴかで助産婦さんでした。
看護婦さんと助産婦さんの知識があるので小児保健を教えているのですが、
小児という字がついていますが、小児保健と幼児教育は
ジャンルとして違うので
どちらかの専門的な知識を持っている人はもう片方をかじったりはしても
同じくらいの知識量を持ち合わせているとは限らないんです。
母も、当然ですが幼児教育の知識まで完璧にあったわけではなく、
私や弟を育てるときは
「子育てについては、全く知らなかった新しいことを発見する日々だった。」
と言っていました。
子どもの病理や心理を勉強する看護婦兼助産婦の経験がある人ですら
こんな具合なんだから、
他のお母さんたちはきっとさぞかし苦労と忍耐そして発見の連続でしょう。
知っていれば苦労しなかったり不安にならなくてもいいことも
ストレスになっちゃうんだからそりゃ大変ですよね…。

で、去年の秋から海外に住むようになってからは
遠く離れたためか?前より頻繁にネット上で
乳幼児についてそして教育について語るのですが、
以下は数日前に交わした母とのチャットの様子です。
母はタイピングするのが遅いので
会話にタイムラグがあって読みづらいかもしれませんが
ご容赦ください。


母 の発言:
元気ですか?
montessorianaの発言:
うん元気
母 の発言:
食育の資料は役に立ちそうですか?
あくまで日本の食育についての資料だから、このまま使えないと思います。
montessorianaの発言:
うーん、色々考え中だよ。
montessorianaの発言:
私が子供のときさ
montessorianaの発言:
静かだったのはいたずらしてるときか
本読んでる時くらいかってよく言ってたじゃん
母 の発言:
日本人は農耕民族なので、狩猟民族の人とは腸の長さも違うし、
食育も違ってくると思います。
母 の発言:
それがどうしたの?
montessorianaの発言:
あれは今考えるとモンテッソーリ教育でいう集中現象なんだよね。
montessorianaの発言:
集中している時は、ほんとに他のことが感知できなくなるくらい集中しちゃって
montessorianaの発言:
名前を呼ばれても気づかなかったりしたって言ってたじゃん
母 の発言:
そうです
montessorianaの発言:
その集中幻繰り返しが子供にとってすごくいいんだけど
montessorianaの発言:
集中幻 → 集中現象
montessorianaの発言:
お母さんは私がそういう風に集中している場面を実際に見たことある?
母 の発言:
あります
montessorianaの発言:
あるんだ??
montessorianaの発言:
どんなだった
母 の発言:
傍へ行って、大きな声で呼びかけると、びっくりしていました。
montessorianaの発言:
ええええ
montessorianaの発言:
なんでそんなことしたの!!!
montessorianaの発言:
ひどい。。。
母 の発言:
用があるから、声を掛けただけなんだけど
montessorianaの発言:
それはどんな用だったの
母 の発言:
びっくりした後、我に返ったみたいになって、「なあに」と返事をしてました
montessorianaの発言:
かわいそう、、、小さかった頃の自分…。
montessorianaの発言:
集中現象はなるべく邪魔しちゃいけないんだよ。
母 の発言:
今になっては、何のようだったか、忘れましたが、おやつだったような気がします。
montessorianaの発言:
そんな、おやつのために集中現象、邪魔されたのか…
母 の発言:
そんなに集中しているとは思わなかったから
montessorianaの発言:
モンテッソーリの園が他の普通の幼稚園と比べて静かなのは、
子供達がみんな集中して何かしらの作業をしているからなんだよ。
montessorianaの発言:
その集中現象を何度も繰り返すのは子供が精神的に育つ過程の大事な部分だから
montessorianaの発言:
邪魔しちゃだめなの
montessorianaの発言:
どうしようもなく止めなくちゃいけない時もびっくりさせたらいけないんだよ
montessorianaの発言:
って、今更お母さんに言ってもしょうがないんだけどさ
montessorianaの発言:
まあ、自分はよく育ったほうだわ。
montessorianaの発言:
と自画自賛しておく。
母 の発言:
子供は年齢とともに遊び方が変わってくるけど、一人遊びをしている時には危険がない限り、手を出さないようにと言われています。
母 の発言:
これは集中力を養うための大事な時期として、注意されています。
montessorianaの発言:
だから、同じこと言ってるんだって
montessorianaの発言:
ただ単に集中力だけじゃないんだよ養ってるのは
母 の発言:
ただ今も思うんだけど、寝るときに毎晩、「白雪姫」の絵本を読んだのを覚えていますか?
montessorianaの発言:
どの本かはわからないけど本を読んでいたのは覚えている
montessorianaの発言:
あとさ、私が一人で本読み始めたのって何歳だった?
母 の発言:
字も読めないときだったけど、毎晩だったので、内容を覚えてしまい、私が読み始めると、一緒に声を出して読み始めるので、途中からmontessorianaに読んでもらって、私がその文字の部分を指し示しながら、読んだのを覚えてますか?
montessorianaの発言:
覚えてない。
montessorianaの発言:
全く覚えてない。
montessorianaの発言:
ていうか、私、賢い子だったんじゃん。
montessorianaの発言:
で、それは何歳だったの。
母 の発言:
2歳の頃に「あいうえお」の絵と文字を書いた表を壁に貼って毎日練習していました、あひるの「あ」とか言って、お経のように繰り返しました。
montessoriana@の発言:
いや、その絵本を声出して読み始めたのは何歳?
montessorianaの発言:
で、それとは別に、一人で好きな本を選んで勝手に読み始めたのは何歳?
montessorianaの発言:
あひるの「あ」ってやってたのは覚えてる。
母 の発言:
4歳位からかな
montessorianaの発言:
2歳の頃の記憶がある自分ってすごいかもしれない。
montessorianaの発言:
4歳の頃に一人で本読んでたの?
母 の発言:
もっと前から、読んでいたかも知れないけど、
集中しているのを見たのは幼稚園に入る直前くらいだったと思います。
montessorianaの発言:
声出して読み始めたのも4歳の頃?
母 の発言:
石田さんと言う人から沢山の本を貰って、いろいろ読んでいたから
montessorianaの発言:
ふーん。
montessorianaの発言:
その他に集中してやっていたいたずらで覚えてることない?
母 の発言:
やもりの尻尾を千切って、千切れた尻尾がピコピコ動いているのを見ていたし
montessorianaの発言:
げげげ。。。。
montessorianaの発言:
それは何歳の頃?4歳、5歳くらいかな。
母 の発言:
にわとりのひよこが卵の殻の中からコツコツと音を立てているのを見つけて、
お節介をやいて、殻を剥いてやったら、
ひよこが死んじゃったと言っていた事がありました
montessorianaの発言:
それは覚えている。。。
母 の発言:
やもりに関しては2歳くらいです
montessorianaの発言:
でも何歳のころだったか覚えてない。
montessorianaの発言:
2歳でやもりつかまえてたの私??
montessorianaの発言:
すんごいすばしっこいじゃない。
montessorianaの発言:
どんだけ機敏だったの私。
母 の発言:
鶏はお墓の前の家の時だったから、小学2,3年だったと思います
montessorianaの発言:
なるほど。
montessorianaの発言:
あと、
montessorianaの発言:
小さい頃死ぬことに興味を持っていた時期があったと思うんだけど
montessorianaの発言:
あれはいつ?
montessorianaの発言:
タクシーだか車の中で「死ぬって何ー?」って今思うとウザイくらいに聞いていたような覚えがある。
母 の発言:
1年の時には授業をほったらかしにして、校庭の花の蜜を吸っていたと、
先生に言われた事がありました。
montessorianaの発言:
えー
montessorianaの発言:
どんな野生児だ私は
montessorianaの発言:
笑える
母 の発言:
死に関しては覚えていません
montessorianaの発言:
うーん。
montessorianaの発言:
気になる。
montessorianaの発言:
○○(弟)はそういうことなかったの?
montessorianaの発言:
何かにすごく集中しているとか
母 の発言:
○○は集中力ないから、どれも長続きしないんじゃないかな
montessorianaの発言:

montessorianaの発言:
いや、小さかったときに
montessorianaの発言:
集中していることとかなかったの?
母 の発言:
いつも、親のせいにしているけどね
母 の発言:
ゲームくらいかな
montessorianaの発言:
あ、あと、親でも先生でも
montessorianaの発言:
この子はきっとこういう(集中力ない、長続きしない、○○できない、などなど)
子だろうって思いながら接してると
montessorianaの発言:
本人に直接言わなくても、本当にそういう子になっちゃうんだよ
montessorianaの発言:
ラベリング理論とかピグマリオン効果というらしいけど
母 の発言:
でもゲームは反射だけで、脳の発達には繋がらないからね
montessorianaの発言:
逆に、この子は(本人の能力以上のことが)できる子だって
思いながら接してると、本当にそういう風になるらしい。
montessorianaの発言:
だから、できない子なんじゃないかしらって思いながら
お父さんやお母さんが○○に接してたんだとしたら
ある意味それは本当に親のせいでもあると思う。
montessorianaの発言:
まあ、本人がそういうラベリング理論に打ち勝てるくらい強い意志の子だったら
良かったんだろうけど、本人にはそれはわからないからさ。
母 の発言:
止めると言った時には何故止めるのかとか、聞いたりしたけど、
私は強制するのは本意ではないので、
本人に決めさせたのが、良くなかったのかと思っています。
そんなに強い意志もないみたい
montessorianaの発言:
何を止めるって言ったの?
母 の発言:
空手が一番印象に残っています
montessorianaの発言:
ふーん。
montessorianaの発言:
ラベリング理論とか ピグマリオン効果は
大人になってからも影響があるらしいから
montessorianaの発言:
今からでも前向きに考えて接すれば大分変わるんじゃないかな。
montessorianaの発言:
ちなみに○○は▲▲(私の彼)のお母さんと妹にとても好かれているよ
montessorianaの発言:
すごく愛想がよくて感じのいい、家族思いのまじめないい子ね!って言ってた。
(私は褒め過ぎだと思うけどね…。)
母 の発言:
でも帰ってくるとメールしておきながら、なかなか帰ってこなかったり、
昨日なんか、泊まってくると言っていたのに急に帰ってくるとメールが入ってきて、
終電車もないから、歩いて帰ってきたのが朝の3時
montessorianaの発言:
ああ、知ってる。
母 の発言:
心配で眠れませんでした
montessorianaの発言:
でも別に帰ってくるのは別にいいんじゃない
montessorianaの発言:
なんで心配なのもういい大人じゃん、男なんだし、
母 の発言:
夜中に移動するなと、お父さんが言っているのに、夜動くから、
お父さんも○○の言う事を聞く気になれなくなちゃうのは仕方ないかな
とも思うんだけど、○○は今日もコマに出掛けていって、まだ帰ってきません
montessorianaの発言:
ふーん。
montessorianaの発言:
なんで夜中に移動しちゃいけないの?
母 の発言:
最近は変質者が夜、犯罪を起こしているので、
巻き込まれるのではないかと追ってしまうのです。
montessorianaの発言:
○○はそんなあほじゃないと思うけどな…。
montessorianaの発言:
それに犯罪に巻き込まれるのは事故みたいなもんなんだからさ
母 の発言:
気をつけているのは分かるのだけど、巻き込まれるのではないかと思うと、
心配になるのです。
montessorianaの発言:
心配なのはわかるけど、心配だからって
帰ってきたときに怒ったら逆効果じゃない…?
母 の発言:
長くなったのでこの辺で終わりにします。
montessorianaの発言:
はい。
montessorianaの発言:
それじゃあね
montessorianaの発言:
おやすみなさい
母 の発言:
おやすみなさい


と、こんな具合でした。
取りとめもない会話なのですが、
遠く離れてもコミュニケーションが取れるのはありがたいことです。


で、
最初のほうに出てきた集中現象というのは
モンテッソーリ教育を知る上でとっても重要なキーワードの一つです。
これは子ども達が自分の興味のある事柄に
自ら働きかけて何らかの作業をしているときに起こる
深い集中の様子をこう呼びます。
これはもちろん集中力をつけるのにとても重要ですが、
育まれるのは集中力だけではなくて、
子ども達の精神性を高めるためのさまざまな要素も一緒に育まれています。
手を使う作業なら自分の意思で随意筋を動かして
自分の動作のコントロールをする訓練をしていたり
脳神経を刺激したり
自分の目の前で起きていることの分析をしてたりするんです。
この日々のちょっとずつの分析力や観察力の向上が
子ども達に更なる発見を促すことになって
益々色々なことに興味を持つようになります。
もう、口で説明したり、ここでこうやって書いたりするよりも
お子さんがいる方は実際に彼らの集中現象を少しでも目撃すれば、
(特に自分の選んだ作業を好きなだけ繰り返して
この集中現象を終えた時の子どもの表情を見れば)
その大事さが本当に良くわかるのですが…。
好きなことをとことんやった時の満足感は大人もわかると思いますが
彼らは大人が感じるよりももっと深い満足感を味わっているようで
作業が無事終わった後の彼らの幸せそうな表情は本当にかわいいです。
ほぼ恍惚の表情に近いです。
子どもによっては「ふぅ。」とか「はぁ。」とか満足そうにため息をついて
自分がやっていた作業を誇らしげに眺めたりした後に
もとあったところに綺麗に片付けると
次の作業を探し始めます。
この時も前よりちょっと自信がついたからなのか
何となく意気揚々としていて、難しい作業にも果敢にチャレンジしようとします。
また、モンテッソーリ教育はクラス編成が縦割り
(幼稚園・保育園なら3〜5歳までの子を一緒にする)なので
自分が年上のお兄さんやお姉さんに何かを教えてもらったり
助けてもらった経験を大抵持っているので
自分が享受した満足感を自分の(同い年でも年下でも)友達にも当たり前のこととして
積極的に教えようとしたりします。
集中現象で沢山の満足感を得て、
いい感情が自分の中に芽生えることによって
人にも優しくしようという気持ちが芽生えるようです。

まあ、これだけではないんですが、
作業によって齎される効果は違いますし、
その効果も本当に書ききれないくらいあるので
集中現象についてはまた今度。

集中現象と深く結びついているまた別のキーワードは敏感期です。
子ども達にはある一定の時期にある特定のものや現象、作業に
物凄く強い興味を示す時があります。
それが敏感期です。
この敏感期は子ども達が顕著に行動に表してくれたりすることもありますが、
子ども達自体は敏感期にあっても彼らを満たしてくれるものや作業現象がないと
それをどうやって満たしたらいいのかわからないので
大人の理解の及ばない行動をしたりします。
主に子ども達がいたずらなんかをしているのを見つけたら
それは大抵「いたずらをしてやろう!!」と思ってしているんではなくて
何かしらの興味があり、それが丁度敏感期に当たるもののことが多いです。
また、敏感期は「何かを学びたい!!」と潜在意識で欲している時期でもあり
いたずらとして発散されているうちはまだいい(?)ですが、
発散できていない場合にはそれが別の行動
いらいらしやすい、暴力を振るう、大声をだす、などなど
モンテッソーリ教育で言う逸脱行為として現れてしまうときもあります。
逸脱行為には上のように動的に現れる場合と静的(ものすごい人見知り、内気、何に対しても消極的など)に現れる場合があります。この違いはもともと子ども達がそれぞれ自分の中に持っている個性の芽のようなものに起因します。双子が同じ家庭で同じ性別で親御さんが同じように関わってもそれぞれ違った発達を遂げるのと同じです。

大抵は敏感期に関する更に詳しい知識を踏まえた上で
彼らの行動をものすご〜く良く観察して
ああ、きっと、こういうことがしたいんだな〜と推測し
彼らのニーズにあった何か(物、作業、本など)を用意してあげると
それがマッチしていた場合には作業を嬉々としてやり始め
段々と集中現象を起こすようになります。
こうなったら、とりあえず大喜びしてください。
私はします。だって嬉しいんですよ〜!!
集中している彼らを見て自分もポワ〜ンと恍惚状態になります。
しかし、恍惚感に浸ってばかりもいられません。
彼らは常にぐんぐん育っているのであっという間に作業をマスターして
より高いレベルのものを求め始めるので
子どもの作業をよく観察しながらきっと次はこういうことしたいんだろうな…。
というのを見極めて、どんどん作業を用意してあげてください。

ちなみに、これまでは作業と書いていましたが、
日本のモンテッソーリ教育では彼らの行う作業をお仕事と読んでいます。
英語だとアクティビティ(つまり活動とか作業)と呼んでいるんですけどね。
単なる作業ではなくて、彼らの行っていることはとっても意味のあることで
彼ら自身を育てると共に、未来の大人を頑張って作っているという意味で
大事なお仕事と敬意を表して呼ぶのだろう…
と私は勝手に推測しました。
だって、関係者はみんな普通のことのようにお仕事って言っていて
その由来を聞いたことがないんですよ。

あと、お子さんがいる人はきっと気づいていると思いますが
子どもは大抵生き物が好きです。
「生きている」ということに興味があって、
いろんな生き物の特徴を知ったり触れ合ったりすることが大好きです。
しかし、手加減を知らないので
小さかった時の私のように…、小動物や虫などの場合は
運悪く関わった動物の命を落としてしまったり、
瀕死の重傷にしてしまうことも多々あります。
って、普通そんなにないですね、きっと、すみません。
これに関しては私だけです、多分。
「生きている」ことと同様に「死ぬ」ことについても興味を持っています。
ただ、「生きている」ことは子ども達にとっても
見えやすかったり、わかりやすく、実感しやすいのですが
「死ぬ」ということは
彼らが理解できるように説明するのが難しいことの一つです・・・。
また「死ぬ」に関連して「死」って何かっていうのも
世界の地域によってはちょっと宗教が絡んでくる概念で
あくまでそれを説明する教育者の考えが少し反映された説明になると思います。
しかし、私は特定の宗教を信仰しているわけではないですし
モンテッソーリ教育の中でも文化や宗教という科目がありますが
これはある特定の宗教に傾倒させるものではなく
世界にある様々な宗教について話をすることが指針として示されているので
あくまでニュートラルな立場から「死」を説明しますが
その説明の仕方も子どもによりけりです。
子どもによって「死」に対する興味の抱き方が違うからです。
最近は多くの人々がある特定の宗教を信仰することに対して
嫌悪感を抱いていたり抵抗を感じる傾向があるように思うのですが、
本来はどの宗教も(よっぽど変なのでなければ・・・)その根源は
人をよりよくするために作られたものです。
なので、嫌悪感を持つことなく宗教の知識を持っておくのは
子どもだけに限らず誰にとっても重要なことではないでしょうか。


で、
今はそこまで虫ラブラブではない私ですが
小さい頃は大好きでした。
動物全般が好きだったのですが(これは今もです。)
中でも虫達は手に持てるし、自分の手の届く範囲にいることが多かったので
持て余すことなく遊べたからだと思います。←これ重要。
芋虫も尺取虫もミミズも蟻も蜘蛛も蛾も蝶もカブトムシもその他沢山の虫さん達も…
ゴキブリですら別に平気だった自分です。
今はNGですよ、もちろん。でもいざとなったら(?)素手で戦えます…。
かなり勝手に「みんなお友達」しかもマブ達抱擁として認識していました。
虫達にしてみれば私はかなり迷惑な存在だったと思います。
丁度虫ラブだった時期は日本国外に滞在しており
家には無駄にだだっ広い庭があり、しょっちゅう木に登ったり
無意味に穴を掘ったりして虫を探していました。
そうしてやっとのことでお友達に出会うと一体に何をしていたかというと
「あ!いたー!!」と叫んでは捕まえて
色々な実験をしていたんですね。
「友達使って実験すんな!!」って当時の自分に突っ込みたいですが
母が同じように突っ込んでいたらしいです。
「なんでお友達で実験するのよあなたは!!」
という質問に対して私は
「だって、面白いんだもん。お母さんもやる?」
と言っていたそうです。
面白いからっていう理由でお友達に実験して
場合によっては死にまで至らしめていた幼少の私…。鬼ですね。
でも全然悪気なかったんですよ〜。
イメージとしてはとなりのトトロに出てくるメイちゃんを
更に過激にした感じでしょうか。
彼女も真っ黒くろ助をぺちゃんこにしてましたよね…。
常にあんな感じでした。真剣なんですよ本人は。
今更だけど親近感湧くわぁ、メイちゃん!!

ヤモリに関しては2歳の頃の話ですが
尻尾がぴくぴくしていたのを見ていた覚えがいまだにあります。
これは自分でもすごい印象に残っているからだろうと思うんですが。
ちなみに2歳の時点ではヤモリの尻尾を故意に引きちぎったわけではなく、
当時の私としては比較的優しめな扱いをしていたんです。
「やもいしゃんかわい〜」と言ったかどうかは覚えてませんが
そう思いながら手に持って頬ずりしていたのを覚えています。
注:ヤモリってすごく汚いんですけどね…。
で、あんまりにも手加減せずにずりずりやってたら
ぽろっと取れたんですね、何かが。
それが尻尾だったんです。
離れたのに動いているのが幼心に不思議だったらしくて
手に持っていた本体のほうは投げ捨てて(おいおい!!お友達!!お友達でしょ!!)
じーっと見ていた様子を母に見つかり
お叱りを受けました。
叱るというか、
母は「ん?なんかmontessorianaが静かだな…。
また何かいたずらでもやっているのかな」
と思いながら私を見たら
案の定ピクピク動く小さい物体を見ている真っ最中で
もしや、と思いつつ近寄ってみたらやっぱりヤモリの尻尾で
「やめて〜!!汚い!!何やってるのあなたは!!」
というようなことを言いながら
私を抱き上げて尻尾から遠ざけただけです。
当時の私は「ち、見つかったか…。」程度にしか思ってなかった気がします。
というか、結構鮮明に覚えていて不思議です。
ヒントをもらうとすごいはっきり当時の情景が思い出せるのは
やっぱりすごく興味があることを集中してやっていたからでしょうかね。
今となっては別にそこまで鮮明に思い出したくないですけど、
でも集中現象と敏感期のことを考えながら思い返すと
とても興味深いです。ええ。

ヒヨコについての話は
当時、家で家畜兼ペットとして飼っていた鶏を
私はこれまたペット兼研究対象として見ており
鶏が卵を産む瞬間を見ようと鳥小屋の中に入って
何時間も粘っていた覚えがあります。
当然母鳥は警戒して絶対に卵を産んでくれませんでした。
私が小屋を出るとすぐに産んでいたような気がします。
そんな母鳥に対して当時の私が思っていたのは
「ケチ!!」

ヒヨコの生まれてくる瞬間も
卵からコツコツと音がし始めて、
時折ピーピーと鳴き声が聞こえ
私は勝手に「助けて」って言ってるに違いない!!
と、決め付けて殻を剥くお手伝い(のつもり)をしました。
しかし、雛は自分の力でゆっくりと殻から出てこないと
温度差がショックとなってしまうのか
殻を剥き終わって出てきたヒヨコを
母鳥のお腹の産毛のところに戻して小屋を離れ
数時間して戻ったときには死んでいました…。
泣きはしませんでしたが、とてもショックで
親に怒られるよりもずっとずっと自分のしたことの意味を考え
このことがあってからはヒヨコ達に接する時は
必要以上に手をかけず自然に任せなくちゃいけないんだ・・・
ということを身をもって学びました。
「そっとしておく」の意味を学んだのが正にこの時だったと思います。
しかしその一方で、母鳥に育児放棄されたヒヨコ1羽を
私なりに愛情たっぷり(?)注ぎながら育て
最後には手乗り(肩乗り)鶏にまで躾することができたときは
かなり誇らしかった気がします。
鶏って頭悪いって思われてますが、
彼らの中にもずば抜けて頭がいい子がいました。
そういういろんな発見をしていた当時の気分は
「自分は動物学者だもんね!!」でした。
ちなみに私の観察の経験では
ヒヨコが卵から孵るのには2〜4時間ほどかかります。
ヒヨコが孵るのをそっと見るのはいいですが、
絶対に手を出してはいけません!! ←普通誰も手は出さないですよね・・・。

他にも私の無邪気な行いによって
かわいそうな目に会った動物達・虫達が結構いるのですが、
その度に命の不思議と尊さ、大事さを学んでいた気がします。
私が言っても全然説得力がないですね…。
でもモンテッソーリ女史も著書の中で同じようなことを書かれていて
何となくホッとした覚えがあります。←しちゃだめ!?

大人は子ども達が何かを触って壊したり、なくしたり
子ども達自身が怪我をすることなどを恐れて
またはその他の大人の都合とやらで
それが子ども達の成長を阻む行為だとは知らずに
彼らを自由な行動から制限してしまう傾向がある。
理由もわからずに興味を持っている事柄から遠ざけられることで
不信感と鬱憤がたまってしまった子ども達が
逸脱行為に及ぶと益々大人が規制するという悪循環ができてしまう。

何かをしてはいけない、
これもだめ、あれもだめと制限するのではなくて、
彼らが自由に活動できる準備された環境を用意してあげて
彼らの興味のあるもの、魅力的な教具で子ども達を囲んであげると
子ども達はおどろくほどそれらを慎重に扱うようになる。
何故なら自分の興味のあるものや
魅力的な教具は彼らにとって宝物だからだ。

嬉々として活動(お茶を入れてお友達に振舞うお仕事)をしていた子どもが
ほんのちょっとした不注意でとても大事にしていた大のお気に入りの
紅茶セットのティーカップを落として割ってしまった時
大人がそれを叱る必要は全くない。
何故なら自分の行動が原因となって
自分がとても愛していたものを失ってしまったのが
その子にとってはとても明白で、
本人が一番その行為を悔やんでいるし、
誰かが何かを言わずともその子は心から反省するからだ。
彼・彼女の目には涙が浮かび
どうしてこんなことになってしまったんだろう
自分はなんてことをしてしまったんだろうと
どうして自分はもっと注意してあげられなかったんだろう。
友達だったのに…。
割れたカップのかけらを大事そうに集めては
時折見えるかわいらしい花の模様を見て
もう二度と元の姿には戻らない自分の友達だったものに別れを告げる。
こんな様子を見せる深く傷ついている子どもに
どうして叱るなんてことができるだろうか。
ましてその必要が全くないのに。
大人がしてあげるべきなのは片付けを一緒に手伝おうかと優しく提案したり
次からはどうすればこんなことが起きないか
といったアドバイスを子ども達が落ち着いた時にしてあげることだろう。
それすら必要ない場合もある。
子ども達は自分で考えて間違いを訂正する力を既に備えているからだ。

こういった取り返しのつかない間違いをしてしまってからは
個人差はあるものの、
徐々に何をする時も慎重に行うようになり
同じ間違いを繰り返さないように自分の動作に
細心の注意を払ってお仕事をするようになる。
その様子は健気ですらある。
この子は本当に慎重に動作を行うことを学び
またその意味を同時に学ぶことができたのだ。
大人にそうしなさいといわれて行う見せ掛けの行為ではなく
自らの意思で自分を統制する力、自制心を学んだ。
その慎重な態度は他の子ども達の目には神秘的に写り
頼もしい年上の友人として頼られるかもしれない。
他の子どもが同じような間違いをした時には
さりげなくその間違いを直したり指摘できる子どもになるだろう。


彼女の著書の部分部分を
色々なところから引っ張り出して勝手に訳したものです。

子ども達は何もできない、いたずらばかりする、
怪我などをしてしまったらかわいそうだ。
などなど、
大人の勝手な都合や判断で子ども達の発達を妨げてしまうのは
大人の方としても本意ではないはずなので
子どもによほどの危険が及ばない限り自由に行動させてあげてください
というお話でした。
自由に行動させてあげるためにまず必要となってくるのが
準備され、整えられた環境というものなのですが、
この話は次回につづきます。
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